義肢装具士という 終わりなき道を、一途に。
義肢装具士・大森浩己

Nakamura Brace Stories Vol.04

10歳にして出会った「義肢装具士」という仕事に惹かれて、18歳でこの世界に飛び込み、気づけば42年。

自身も義足ユーザーである大森浩己は、義肢装具を介して、向き合う患者さん一人ひとりの人生に並走してきました。
叩き上げの職人気質と持ち前の観察眼、そして粘り強さを武器に、ゴールのない仕事に挑み続ける大森。そのストーリーに、耳を傾けてみましょう。

10歳で初めて出会った義足、そして義肢装具士という存在

中村ブレイスの本社社屋から少し離れた別棟に、瓦屋根と格子戸が印象的な和風建築の一軒家があります。まるで民家のようにさりげなく景観に溶け込むこの場所が、中村ブレイスの義肢製作工房。
中に入ると、この道40年以上のベテラン大森浩己が、若手スタッフとともに黙々と作業中です。

ソケット(切断部位にフィットさせる部分)と金属の脚が、正常歩行にふさわしく接合されているかを確かめる大森。

熟練の手捌きで、患者の体の特徴を義肢に伝えていく。

動き回るその姿を見ただけでは想像がつきませんが、実は大森の両脚は義足。
鳥取県
八頭郡で生まれた彼は、生後間もない頃に掘りごたつに落ちて下肢に大やけどを負い、幼くして両脚を切断したのです。

物心つく頃から車いすを送っていた大森少年が、初めて義足を身に着けたのは10歳の頃でした。それはちょうど、中村ブレイスが創業したばかりの時期でもあります。

その時お世話になったのが、今の会長(中村俊郎)です。義足ができたことで、車いすでは越えられなかった段差や坂道もふつうに歩けるようになって、活動範囲は一気に広がりました。園でソフトボールをやる時も、構えて打って塁に出るまでが、全部自分でできる。それまでは車いすで打席に出て、打ったら誰かに代わりに走ってもらっていましたから、子ども心にもそれはすごい変化でしたね」

中学生にして芽生えた「義肢装具士になる」という目標

それ以来、大森少年の成長のペースに合わせ、年に一度、中村ブレイスの義肢装具士たちが彼の元にやってきて、義足をつくり変えるのが恒例行事になりました。

そんな中で、彼の心に残っているのは、中村俊郎の「義肢装具のプロ」としてのありようでした。当時の日本は、まだ義肢装具に関しても医師の決定権が強く、患者さんも義肢装具士も「医師に言われた通りにする」のが主流だった時代。

まだ創業したばかりの会社を率いて、義肢づくりにいそしむ20代の中村俊郎その姿が大森少年に夢を与えた。

そんな中で、彼の心に残っているのは、中村俊郎の「義肢装具のプロ」としてのありようでした。

単身アメリカに渡り、一人ひとりに合わせたオーダーメイドな義肢装具がつくられている現場で学んできた中村は、常に「患者第一主義」。医師や理学療法士といった専門職と連携し、患者さんのために妥協せずよりよいものをつくろうとする姿勢を、大森少年は独自の観察眼でじっと見ていたのでしょう。

「自分もこういう仕事をしたいって最初に思ったのが中学2年か3年の頃です。当時の主治医の先生に相談したら、中村会長に話をしてくれてね。そしたら“義肢装具士の資格を取るには高卒以上の学歴が必要だから、まずは高校に行って、それで気が変わらなかったらうちにおいで”と言ってくれました」

もともと手を動かしてものをつくるのが好きで、大工に憧れたこともあった大森少年。義肢装具士という目標ができてからは、自分や友人の装具が故障した時など、修理作業の現場に助手のように張りつき、雑用の手伝いをこなすこともあったといいます。そして彼は初志を貫き、高校卒業と同時に中村ブレイスに就職することになります。

小さな過疎の町に見守られながら、もがきあがいた若手時代

大森が入社した1983年当時の中村ブレイスは、まだ社員数も少なく、仕事場は中村俊郎の自宅に隣接するプレハブ2軒。

高校を卒業したばかりの18歳の若者に対して、職場の先輩たちも手取り足取り教えてくれるわけではなく、まだ「見て覚えろ」が当たり前の時代でした。知識面でも、身体面でも、大森は日々の仕事についていくのに必死だったといいます。

現会長の中村俊郎も自らが義肢装具士。少人数の会社において、中村の技術をすぐ隣で学べた。

義足の身ゆえ、立ち仕事の多い現場に慣れるのにもひと苦労。入社して3ヶ月ほど経った頃、一度だけ「辞めたい」と弱音を吐いたこともあった。

そんな中、彼を支えてくれたのが、過疎の町・大森町の環境でした。当時の彼は、中村家の親戚が所有する空き家に一人で暮らし、風呂だけは中村俊郎の自宅へもらい湯をしに通う毎日。町の人ともあっという間に顔見知りになり、一緒にソフトボールに興じたり、お祭りや町内運動会などの行事を楽しみました。

その後、職場で出会った妻と結婚して大田市内に所帯を持つことになり、彼の大森町暮らしは3年ほどで終わりを告げます。しかし「大森町の人って、やさしいんですよね」と昔を思い出しながら語る彼の表情は、柔らかく懐かしげです。

中村俊郎のすぐそばでの生活・仕事が、大森の義肢装具士としての成長になった。

先輩たちと休憩中の大森。赤ちゃんを抱いている後ろ姿は、中村俊郎の妻・仁美。

現在の大森の町並み。当時と同じ景観が今も人々の暮らしの中で守られている。

ところで入社してから一貫して「義肢をつくりたい」と考えていた大森でしたが、いきなり義肢製作に関われたわけではありません。まずは10年間、義肢につながる土台でもある装具の仕事で経験を積み、30歳を前に、満を持して義肢部門に異動しました。

「そのあとしばらくして、義肢部門でリーダーだった先輩が他部署に異動になって、頼れる存在がいなくなったんです。本当に必死で独学に取り組むようになったのはそれからでしたね。僕は専門学校にも行ってないから、全部実地で学ぶしかないじゃないですか。だから会社では製作の仕事をして、家に帰ってから手当たり次第に本を読みあさって……。風呂に入るたびに自分の骨を触って型取りのシミュレーションをしたりもしてました」

義肢部門に移り、「知らなければならないことがありすぎて、何から勉強したらいいのかわからない!」というもどかしさに直面していた頃。

教科書に書いてある答えだけでは解決しない問題が山ほどあるのが現場というもの。ただ知識を頭に入れるだけでなく、使える血肉に変えていく苦労がそこにありました。

「ゴールがない仕事」に向き合い続けて

「大森さんは義足ユーザーだから、義肢を使う患者さんの気持ちがよくわかるのでは?」。

これは、大森がこれまでに何度となくかけられた言葉です。しかし、他人の内面に寄り添うとはそんな簡単なことではない、というのが彼の本音。一人ひとりの患者さんは、義肢を使うようになった経緯も、その身体状況や苦悩も千差万別であり、“わかったつもり”になることがもっとも危険。「この仕事にはゴールがない」と大森が自戒を込めて口にするのも、そんな思いゆえでしょう。

「1人前の義肢装具士になるのに何年ぐらいかかりますか?って聞かれますけど、自分だっていまだに1回1回これで大丈夫だろうか、これでいいんだろうか、と思いながらやっていますよ。悩みは尽きませんが、だからこそ、この仕事は面白い。自分がやったことに対する評価が、言葉じゃなく、患者さんご本人の表情にありありと出るのでね。“うん、いいね”っておっしゃっていても、本心からバッチリだと思っている時と、ちょっと違和感を感じている時とでは、言葉から伝わるニュアンスが全然違いますから。だから“いいね”って言われても、ちょっと何か引っかかるなって感じる時は、“いや、もうちょっと直させてください”って食い下がっちゃう。やっぱり、心からの“いいね!”が聞きたいですから」

初めて義足をつくる人。今使っている義足に不具合があって相談に来られる人。それぞれに抱えている悩みが違うから、寄り添い方もケースバイケース。決してマニュアル化できません。

患者さんの微妙な表情の変化や、言葉にならない感情の揺れも見逃すまいとする大森のまなざし。どこまでも使う人のことを考え、妥協をしない、という中村俊郎の精神が、彼の中にも確かに受け継がれているのを感じます。

中村ブレイスの技と心を、次世代につないでゆくために

「入社してから42年経ちますけど、自分としてはまだ若手気分というか、入社したのがついこないだのような感覚なんですよ」と照れたように笑う大森。義肢製作の現場とは、それほどまでに毎回毎回がオンリーワンだということのあらわれでしょう。ベテランになったという実感もないまま、ひたすらものづくりに熱中してきた道のり。振り返ると、そこにはたくさんの患者さんの人生が重なっています。

1997年、火災で両足を失ったモンゴルの少年ツォゴー君を島根に招き、義足を製作。小さな過疎の町から生まれる義肢は、世界のあちこちで活躍しています。

日本を旅行中だったイギリス人男性が、弊社の噂を耳にして訪問。そのまま義足の製作を行ったことも。

「ずっと何年も見てきた患者さんから、“結婚しました”なんて報告を受けたりすると、感無量ですよね。小さい頃から知ってるから、なんだか本当の娘みたいな気分になっちゃって。あとは義足になってから、もともと得意だった水泳に再チャレンジされて、大会で優勝されるまでになった方もおられました。最初にここへ来た時はものすごく暗い顔をしていたのが、次に来られた時にはもう目が輝いていて……、この仕事をしていてよかったなと思うのはそんな時ですね」

そして、中村ブレイスの技と心を次世代につないでゆくのも、これからの大森の大切な役目。

「職人なんで、自分がつくってる方が楽なんですよねぇ。でも後輩にも経験してもらわんと覚えられんから、任せんといけん。でもつい手を出したくなっては、いや、いけん!って思い留まる(笑)、そんなことの繰り返しです。僕は伝え方が上手じゃないんで、ストレートに言いすぎたかなって後で後悔することもしょっちゅう。でも厳しさで言ったら中村会長も相当なものでしたよ。昔、あるスタッフが今から病院に持っていこうと準備していた義足を、その場でダメ出しして解体させたことがありました。やられる方にしたらたまりませんが、そこには患者さんのことを第一に考えて、中村ブレイスとして妥協のないものを、っていう思いがあったと思います」

大森の入社当時、小学生だった中村宣郎(現社長)は、もらい湯をしに来ていた大森の姿をよく覚えている。「わが家の脱衣場に置かれた彼の義足、あれが私が義肢を意識した最初のきっかけでした」。

60歳の節目を目前に控えた今、長いお付き合いになる患者さんからは「大森さん、私が死ぬまでやめないでよ!」と会うたびに言われるという大森。きっとこれからも、悩みながらも粘り強く一途に患者さんのことを思い、それぞれの人生に寄り添い続けていくことでしょう。

中村ブレイス株式会社 義肢装具士

大森浩己 Hiromi Omori

1964年鳥取県生まれ。0歳児の頃に事故で負った大やけどが原因で両脚を切断。
中村ブレイス製作による初めての義足を身につけたのは10歳の頃。中学3年生にして「義肢装具士になりたい」と志し、高校卒業後の1983年に中村ブレイスに入社。キャリア40年を超すベテランとなった今、その腕を頼って遠方から訪れるファンも少なくない。